畳に敷いてある藺草マットがベタベタする。
湿気を調節してくれるはずの藺草が湿気をマックス吸い込んだ状態、だろうか。
このままだとカビになりそうなので、
仕事から帰ってきたケンとタンスを移動し、い草を剥がし、部屋の角に置いてあるタンスの引き出しを取り出す。そして除湿機をまわしておく。

廊下のカーテンレールにかけておいた天然木カゴも、天然木のイーゼルも、私の部屋の縄で編み込んだ丸イスもカビにやられた。
そぉっと外へ持ち出して、これらは廃棄処分。

思い出・・・そうだ、思い出も一緒に廃棄しよう。
どれもこれも、使わないからカビになる。
そもそも必要のないものなのだ。
座敷の畳養生のつもりで敷いた藺草マットだけど、畳の表替えをすればいいだけのこと。
ここは来客用で、頻繁に出入りしない部屋だけど、時々はここで過ごしたらいいのだ。
物は考えよう。
大切に抱えていたものは小さな恐れを発端にした執着のような気がしてならない。

今年の湿気は半端ない。
いつもなら日差しが差し込む部屋が、7月の末というのにジメジメしている。
日差しがもたらさなかったものを、雨がもたらしてくれた。
私が気を使わなくなったものに、新しい命(カビ)の循環が発生したと考えればいい。ケガレ(気枯れ)を祓う6月の夏越の祓いには、使わなくなったもの、気枯れしたものを手放す、そんな意味もあるのかね。

洗面所の麻の暖簾もベトベトしてカビの気配、ケガレと判断。
長く使っているものだけど、この暖簾がなくても困ることはなし。
風通しがいい場所でも、こんな有様だから換気扇と扇風機を回しっぱなしにしておこう。風神さま、ですな。

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思わぬところにカビを発見。
湿度が半端ないのだ。
換気を良くしようと窓を開け放しておいたのが良くなかった。
これまで湿った風がこんなに長く続くことはなかった。
扇風機を回しておくことにしよう。

映画「リトル・フォレスト」を思い出した。
町から離れた小さな集落で暮らす「いち子」の春夏秋冬の生活が描かれた映画。
一度は都会に行き、傷心で生まれ育った集落へ帰ってきた主人公「いち子」。
時間と戦い、簡単便利な生活が幸せだと疑わなかった人たちに、いち子の知恵を生かした丁寧な暮らしは惹かれるものがあるはず。
彼女はそんな山の暮らしに一度は嫌気がさして都会に行く。
いち子目線で過去を振り返り、また未来を追っていく作品。
彼女に影響を与え続けてきた母親役は桐島かれんさん。
親の自由な生き方は、その時だけを切り取ったら賛否両論。
だけど長い目で見たとき、いち子の未来に母親が伝えたかったことは宝ものになるんじゃないかなと思った。

作品の中で、
うだるような暑さの梅雨のある日、
いち子は台所の木ベラがカビているのを発見する。
そして、やるしかないっ!といった面持ちで、
部屋のストーブに薪を入れ火をつける。
湿気にストーブを焚いて対処する知恵。
そして、冬のストーブでは火が大きすぎて焼けないパンを、この時期だからこそできる熾火で焼く。

アイディア次第で暮らしはエンジョイできる。

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今日こそは気温が上がるのだろうか、
明日は晴れるのだろうかと、天気予報を眺める。
太陽が恋しい。

暑さ寒さも彼岸までとは言うものの、
お彼岸まで20日程となると・・・今年の夏は相当短くなりそう。
予報では8月に入ると陽気が戻ってくるということなので心待ちにしていよう。
短かろうが夏は夏だ。

その夏の間にやろうと思っていたこと、やりたかったことは仕切り直し。
旅行の計画も、娘たちの帰省も、期待し予定していたことの全てを仕切り直す。
その気持ちに不平不満を抱くことなく仕切り直す。

いつでも、誰もが自分の最高最善を知らない。
2020年の夏は、例年とは違っていても不安に陥ることなく、全ての人に与えられた最高最善の夏だと知って心おだやかに過ごそう。

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今回、おそうじの会の講話は方丈さまのおはなし。
とても深い内容を私たちにもわかるように、
丁寧にかみ砕いて論じていただいた。
私が理解したことは、坐禅の時に頭をよぎる「念・想・観」は量ることなく、仏であろうとする心も必要がないのだという話だった。
人によってはもっと深く読み取ることもできる内容なので、
私が理解できたと思っていることが、意味するところ全てではない。

振り返って、何ものかになろうとする心はいつだって苦しいものだもんなぁ・・・と、
煩悩だらけの私は思う。

坐禅をする姿形は仏そのものであっても、仏になろうとする心は必要ないのですよ、だってそもそも、みんな、全てが仏なのですから。
そう言われると、心が安らかになり、自然と笑みがこぼれる。

次の瞬間、またまた煩悩が疼きはじめる。
この笑みを誰にも見られていないことを案じ始めた。
見事というしかない煩悩にあきれるわ。

そして、その次に私の心によぎる考えは、
いえいえ、仏なんて、私はそんなもんじゃありません。

私こそ救われるべき人なのだと思った次第・・・

今回の献立は、夏の開放感というよりも、陽性を補うつもり。
大根、ゴボウ、人参。
ゴボウと旬のジャガイモ、セロリ、油揚げのマリネ、大根のハーブの香り蒸し、おからの豆腐マヨネーズ和え、こんにゃくの味噌漬け、大根とキャベツのプレスサラダ梅和え。

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夏の野菜、早くも半分が枯れはじめた。
豆類は強いなぁ、上へ上へとツルを伸ばして、まだ余力を蓄えている。
トマトはなかなか熟さず、青いまま。
青い実は8月に入るのを心待ちにしている感じだ。

ところが・・・
思いのほか大きく立派に育っているのが「大根」
いつもの夏のような陽気がやってこない今年に、大根はたまらなく嬉しい食材。
例年、深さんから届く夏野菜はキュウリ、トマト、ナス。
その中に時々細くて辛い大根が数本混じっているけれど、
辛いのでお味噌汁に入れたりして食べていた。
今年の大根といったら太くてみずみずしく、辛味も少ない。
雨が続いて夏野菜はイマイチ育ちが悪く、いつもはうまくいかない大根が立派に育った。
なんというか、畑は医者であり教師であり、優しい友達だ。

なかなか陽気が戻らない今年のような夏は、例年通りに野菜をサラダにして食べ続けていたら、秋になって不調が起きそうだなと思っていた。。
それでも畑で育つ野菜に悪気は全くなく、問題は食べ方。
陽性と組み合わせて食べよう。
味噌でもいい、火を通してもいい、塩漬けもよし。
それでも有り余るくらい採れた時にはお隣さんにおすそ分けでよいのだ。

根菜の出来が良ければ、それは「根菜を食べなさいよ」と言うメッセージだと思えばいい。陰性ばかり食べているとカラダが浮腫みますよと。
どんな夏でも適度な陽性は必要だけど、今年は念を押された感じの大根。

今月のおそうじの会は大根づくしになるはず。

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外出を控えるようになって、家ごはんが充実しはじめているらしい。
調理家電がスゴイ売れ行きだそうで。
わたし的に充実した家ごはんとは、
「最高判断力メニュー」と呼んでいるもの。
マクロビオティックレシピの中で最も基本的と言われるものは、
油は使っても少量、そもそも食材の中に含まれる油分だけで十分なのだから。
甘みは穀類の甘み、次に野菜の甘みで十分。玄米がすでに甘いし、小豆もとても甘い。
最初の頃は、そんな事を言われても食材の中の油なんて味わえないし、穀類の甘みも小豆の甘みも、そんなもの一切感じなかった。

それでも根性で基本的レシピに忠実に従った。
それが正しいことだと思っていた。
理論が正しければ私が我慢していることには目をつむってよいという自己虐待をした結果、自己崩壊寸前に。
それでもマクロビオティック理論に惹かれた私は、美味しいと思いたい、このトンネルから抜け出したいという一心でレシピ本を真似たり、ネットで検索した料理で崩壊を免れ、諦めずに半歩前に進んだ。

普通にアニマルフードを食べている人も「これは美味しい!」という大豆タンパクの揚げ物に質の良い油を使ったドレッシング、マクロビオティックではオプションとされている甜菜糖やメープルシロップを使ったスイーツ。
我慢のない、家族が喜ぶマクロビオティック料理に落ち着いたときの満足感、充足感にしばしくつろぐ。
でもこれは移行食であって、実は、そこからは引き算が始まる。

何がきっかけになるのかは人それぞれだけど、
私の場合には主食、玄米。
バランスシートでは食事の4〜6割を主食となっているので、どうしても主食の玄米が一番美味しいと感じる副菜を食べたくなる、作りたくなる。
ごま塩はいちばんというのは当たり前、シンプルなものが玄米の甘みには合う。
副菜を変化させるために、移行食中もまずは玄米をしっかり食べる。

そして、美味しい!と作っていたものから引いて、引いて、引いて行くと、最初の最も基本的と言われるものに帰って行く。
あまり美味しいと思えないのに理論だけで食べていたものが、油も甜菜糖も使わず、満足して飽きがこない、味覚的にも理論的にも最高判断力がなせる陰陽調理だったと知ることになる。

ご馳走が並んだテーブルに切り干し大根が並んだとしても、最高判断力によって調理されたマクロビオティック料理が劣るということはない。
のど元過ぎて、体の中で食材が細分化されて、きれいな血となり、細胞は臓器を強めていく。臓器が滞りなく機能することで正常な判断力を身につける。
この状態を健康の基準にした。

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連休だというのに静か過ぎて、トナリハナニヲスルヒトゾ。
車の通る音も、子どもの声もしない。
まるで、世界中が瞑想しているような雰囲気だ。
私はこの連休に、何度目かの「カナンの果て」を読むことにする。
今週末のおそうじの会の献立も、頭の中で描きはじめることにする。

ある程度、歌い続けていて歌うことに慣れていたり、お陰でいろんなアイディアや技術的なことにも幅が出てくると、それはそれで豊かな実りの体験もする。
その一方で、ピュアな感性に触れた時の未完成の完成(若者のパワー)に感動して、どうやっても戻れない時間というヤツに嫉妬したりする。
私の20年以上前の音源を聴けば、トータルで未完成を作ってしまった自分に出会うことができる。
若い私の歌には、それはできない、これもできない、でも、これならできるという境地の強さみたいなものを帯びていて、最近は私の記憶にないそれらにガツンとやられっぱなし。

昔、ライブハウスで歌った時、対バンしたシンガーソングライターの女性、名前を忘れてしまったけれど、彼女がライブの後で話しかけてきた。
彼女の歌はセンスある曲と耳なじみのいい声、だったと思うのですが、結婚を控えてライブ活動ができなくなる、もしくは活動に限界を感じているか、どちらかだったと思うんだけれども。
とにかく、歌に悩んでいた様子だった。
それが、
「こんなふうにやればいいのですね!」
「あー、ユキコさんみたいに、こんなやり方があるなんて!」
と、涙ぐみながら、何かを掴んだというふうに「ありがとう!」と言われた。

別のライブの時にも、ライブ後の出演者が心通わす飲み会でも、ハッキリと、または遠まわしに、「難しいことはしていないのになんでだろうね」ともよく言われた。
なんでだろうねと言われても返事のしようがないし、
その通りなので、またか、という感じで聞いている。

私は本当に難しいことは出来ないし、そもそも難しいことはわからなので、これならできる!というところだけで踏ん張ってきた。
それも限界にきたら、舞台から降りるつもりで。
シンガーソングライターの彼女は私の、難しいことはしない、というのにヒントを得たのだと結論づけて、すっかり忘れてしまっていた。

ところが最近、私にも相手が意図していないことをキャッチするということが頻繁に起きるようになった。
それでシンガーソングライターの彼女のことを思い出した。
そしたら芋ズル式に記憶が戻ってきた。
私が意図していないことを、相手が受け取る。
または相手が意図していないことを、自分が受け取るみたいな。

なんにしても、どんなことでもそれはギフト。
私は怖がることなく受け取り、そして必ず心の平安が訪れる。
そして私は心の平安を差し出す。
受け取ることと、差し出すことは同じ。

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人差し指を包丁で切ってしまった。
急いでいたり、焦ったりすると怪我をするのは、宇宙の計らいだ。

作業が一旦止まる。
出血するが、血の排泄と思えばいい・・・こわっ。

一旦止まるので、時間軸が変わる。
強制的に変えていただいた。

私に、それまではなかった「これでよしとしよう」という考えが浮かぶ。
受け入れる思考へと変化を果たす。

そして気づく。
これでいいのだと、ずっと思いたかったということを。

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だいちゃんのトイレの猫砂はペレットを使っている。
木の粉を固めたペレットストーブ用。
うちにはペレットストーブはないけれど、
木のいい香りがするし、寒冷地ですからね、
何かあった時には防災用としても使えるペレット。

ただ、猫トイレ用に開発された砂と違って、扱いにコツがいる。
ペレットは水に濡れるとフワフワとした粉状になってしまうので、
猫の足についたフワフワした粉が家中に撒き散らかされることになる。
私はだいちゃんがトイレに行った後、
すのこ状になっているトイレ部分を外して新聞紙の上で揺すり、形のあるペレットだけが残る状態に保つようにしている。
そうしておけば次回のトイレ時に、フワフワの粉が撒き散らされることはない。
スティック掃除機が配備してあれば問題ではないのですが。
フワフワの粉は堆肥として土に戻すこともできるので、ペットのゴミは格段に少なくなる。


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ラジオを付けたまま眠ってしまった夜中に、
なつかしい歌が聞こえてきて、目を開けないでしばらく聞いていた。
松山千春さんだ、と思って歌が終わるまでは聴いていた気がする。
その声に昔のことを思い出したところまでは意識があるのだが、
その後は意識と夢の境界を彷徨った。

思い出したのは子どもが5歳の頃、ママ友から松山千春さんのコンサートがあるから一緒に行かないかと誘われたこと。
一緒に行くメンバーの中に会場近くに住んでいる人がいて、私は面識がないのだけれど、その方のお母さんがママ友の総勢6人の子ども達を預かってくれるというのだ。
子ども達同士は顔なじみだから寂しくもないだろうと、お言葉に甘えてコンサートに行った。
最初は気がかりだったけれど、コンサート会場の熱気と久しぶりの開放感で、心配は吹っ飛び、コンサートが終わっても興奮冷めやらずで独身時代に戻った気分だった。
急いで預かり先のお宅に戻ると、何やらお母さんが疲れた顔をしている。
大丈夫とは言っても、知らないよその子どもを預かるのは大変なことなのだ。
申し訳ない気持ちだった。
チャイムを押すと、すでにリュックをかけた帰り支度の子ども達が玄関先に集まってきて、夜が遅いこともあってが私たちの興奮とは真逆の静かな雰囲気。
子どもの顔を見た時、罪悪感でいっぱいになって私のコンサートの余韻はあっという間に消えた。
他のママ友達がどう感じたかはわからない。
羽根を伸ばしたいという気持ちは心の奥にしまいこんだ思い出が松山千春さん。

夢の中で私は、罪悪感を持った私に、
「罪悪感は幻想、錯覚です。
羽根があるのにのばさないのは何故ですか?
羽根があるのは、必要があるから付いているのです」
と話していた。

その名古屋でのコンサートはというと、
トークが多くて感動よりも笑いの連発ライブだった。

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