8月, つぶやく:2階の住人

愛そのものではなくて「愛すべき」という契約を手に入れた関係は、どちらかが契約違反をすれば正しさという武器を容赦なく振りかざしても許されているのは周知の通り。ただし、この世界では。
お互いに、自分が愛せなかった部分を愛してくれる人を手に入れたことで、やっと自分は完全になったと感じているために、相手が自分の元から去っていくことは自分の完全性を失うことになる、それが許せない。
私はあなたのせいで自分の完全さを奪われたと相手の責任にしたいけれど、自分の完全さを補ってもらうためには手放せない、そのジレンマ。

以前に住んでいたアパートは、
外観は洋館風の2階建て、建物の扉を開けると中央の階段を挟んで、左右に2家族づつ、合わせて4家族が住んでいた。
私たち家族は1階の部屋で、2階には若い男女が住んでいた。
ふたりは恋人同士だと思った。
生活感を感じなかったからだと思う。
犬を飼っていた。
喧嘩もよくしていたけれど、笑い声もしていた。
昼間はひっそり、深夜に生活音がする。
顔を合わせたのは挨拶に行ったときだけなので、何も知らないのだ。
挨拶の時もドアチェーンをしたままの10センチくらいの隙間から女性が応対してくれた。
眠っていたところを起こしてしまったのかも知れない。
私たち家族はそのアパートで4年ほど暮らしていたけれど、お2階さんと顔を合わせたのはその時だけ。

建物は道に面していた。
この道は住宅街の中では比較的道幅があり、近所に用事のある人はここに縦列駐車していた。
車が止まると、道に面した居間の出窓までの距離は1メートルほどで、磨りガラス越しには人影が映り声も聞こえる。

ある冬の深夜のこと、エンジンをかけたままの車内で電話をしている男性の声が聞こえてきた。
1時間以上にわたり低音で響くエンジン音はさすがにイライラしたけれど、ここは我慢しようと決めて眠った。
それよりも、イライラがマックスになった近隣の住人とトラブルになりはしないかと、そっちの方が心配だった。
しばらくして、2階の玄関ドアが開く音がして、けたゝましく誰かが階段を駆け下りる音がした。

車を叩き、中の男性を罵倒する女性の声と肌を叩く音、イテェと叫ぶ男性は応戦しているようで、女性はどんどんエスカレートしていく。
もみ合っているようで衣類が擦れる音や人が倒れる音がする。
発進しようとする車と阻止しようとする女性の言い争いがしばらく続いて、車が猛ダッシュ。
その車に向かって大声で罵声を浴びせる女性の声がしてやっと静かになった。
その後、お2階さんは静かだった。
数日して、何もなかったかのようにふたりの暮らしが始まった。
何があったかなんてわからない。
今、お2階さんはどうしているだろう。

自分が愛せなかった自分を外側の誰かに満たしてもらう必要は全くない。
特別な関係は自分が愛せなかったものを鏡のように見せてくれる。
特別な関係の彼らは期間限定の救世主だ。
愛以外を教えてくれる救世主。
愛について知ろうとするよりも、愛以外を知っていくと、この世界に特別性を見なくなるらしい。
特別性を求めなくなると言う。
この世界は愛の代替品ばかりで出来ている。
自分は代替品で満足するしかないと信じ込んでいて、代替品でもいいから特別性を保ち続けたい自我は、愛そのものを見るのが怖い。

代替品には束の間のオアシスがあるかもしれないが、
永遠の平安はないので、
時が経てば、また新たなオアシスを求めずにはいられなくなる。
外側には平安はないと気付くまで。
実は内側に永遠の平安に続く扉があったことに気付くまで。
その扉には誰も鍵をしていないから、いつでも開けられるということに気付くまで。

そして、たった今、今ここで扉は開けることができる。
そこにはずっと平安があったのだと気付く。

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