6月, つぶやく:心が私だとわかる体験

例年、6月の半ばも過ぎれば滝開きの準備が始まる。
私は備品の管理をしているので、初参加の方の褌や水衣、貸し出し用品などの確認、当日の禊に使う備品の補充をする。
役員は滝掃除の段取りをして会員に呼びかける。

今年は例年通りにはいかず、三密になる役員会は見送りになった。
中止が確実になったので、これまでの6月とは違った6月が始まっている。
そう言うなら5月だって、4月だって、これまでとは違うわけだから6月が特別違うわけでもないのに、今すべての動きが止まったかのように見えてしまう。

初めての禊から数年たった頃、
自分が「禊」という形態に依存しているような気がしてざわざわした。
禊のイメージは「浄化」、それは本当だと信じているけれど、再生が約束されている特別な私というのが不自然というか、納得できないというか。
再生が約束されている特別な私というキャラクターになること、
それが禊の真実とは思えない。
だから6月の会議が始まる頃の私は、いつもウダウダしている。
それが、禊の日に向かうに連れて、固まってくるのだ。
迷いはなくて、真実を探求するなんていう高尚な考えはひとかけらも無くなる。
会は毎年人手不足、神事の準備を怠れば立ち行かないから責任に集中する。だから考えている間がない。

当日も人手不足に変わりないですから、様々な手配と段取りに追われる。
そうすると、自分に戻るのは滝に入った後。
滝に入った後は気持ちいい。
その頃には禊の真実なんてどこかへ行ってしまって、気持ち良さだけが残る。
滝の後で髪はバサバサ、ノーメイク、目の下のクマ、見るからに疲れの形跡はあるのに心が踊るのだ。細胞がイキイキと再生を始めたとしか言いようがない。
その証拠に肌のキメが整い、滝の後は誰もがもち肌。
滝のマイナスイオンのおかげだと、誰もが自分は汚れたままだと言いたげ。
いやいや「自分の心が変わったからだ」と自分に言って欲しいと、私は思う。
禊で得たエネルギーを自分のものにして欲しい。
滝に与える必要はないのになぁと、つくづく思う。
それは肉体を完全に忘れて、心が私になる瞬間。
心が私だとわかる体験。

そこに行き着く過程を今年は体験せず、最終的に運ばれる「心が私だとわかる体験」、今年はない。
滝開きは中止でも、毎年6月は「心が私」だとわかるところへ進み始めることにしようと思った。
6月を高速回転させて、毎月6日、毎日6時・・・そんなふうに6という数字を「心が私」と読み替えていくのもいいかもしれない。
どこかで6を見たら「心が私」と、自分軸に戻ろう。

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