8月, つぶやく, 留め帳:ふたりでいる意味

まさか、長野で暮らすことになるなんて、夢にも思わなかった。
これ、私の口癖。

夕べ、夜あそびの帰り道に20年前に初めて上田にきた時に歩いた道を車で走った。20年前、大きな選択をしたことに自信が持てないまま、ひとりうつむき加減で歩いた冬の思い出。
その時代、上田は楽しい時間を過ごした親しい友人が住む土地だったけれど、ひとりでいる時の心の内はその時間と程遠いものだった。
友人の存在は自分の気持ちに向き合わずにいられたけれど、その友人も遠くへ越していった。
空虚感が続いた数年後、私は上田から車で20分ほどの日当たりの良い町で暮らし始めた。お天道さまと、マクロビオティック、音楽と新しい仲間たちと過ごすうちに癒されて正直に生きることができるようになって、どんどん自分が好きになっていく。

今は、その通りを歩く理由もなくなった。
その時代を懐かしく思いはしても、その町に残るセンチメンタルな感情から逃げるように足が遠退いたまま、友人との連絡も途絶えた。
風の便りに元気にしていると聞いた。

久しぶりに走ると、駐車場が出来ていたり、マンションが建っていたり、飲食店も変わっいて・・・思えばその頃に仲良くしていた人たちとも付き合いがなくなった。環境を自ら変えていくことへの免疫力を得た私は、既存のものにも抵抗しするようになって、権力も毛嫌いして、妻としてどうあるべきか、母としてどうあるべきかについても持論でもって生きてきた。当たり前とされているもの、常識を疑い、「盲信するな」という桜沢如一先生の言葉は脳の回路に組み込まれた。

一緒に暮らすケンは夫であり、親友であり、戦友であり、父であり、時には子供のようにもなる。人は多面体だ。

ふたりでいる意味。

どんどん変化していく私について合わせるだけでも大変なことですが、20年も共に暮らし、持論と持論がぶつかりあう場面を繰り返し、ようやくふたりでいる意味を味わい始めた。
昨日の私、今日の私、明日の私、と激しく変化する私をずっと20年も見届けてきたケンは、その意味で尊敬に値する。

今、ブログを書きながら隣にいるケンに「ふたりでいる意味って何?」と聞いてみた。速攻、「性格の不一致の克服」と返ってきた(笑)

またまた、どーでもいいことを聞くな〜、みたいな話しぶりも想定内。
反応するよりも先に私にはわかる。

それより、自分が撮影した写真を見ろ!と、これを撮影するのにどんなに大変だったかと撮影秘話を話し続ける。
本当に性格の不一致、納得。

私たち、愛すべき性格の不一致。

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