6月, オトナの庭遊び, つぶやく, 留め帳:何をやるかは問題でなくて、どんな気持ちでいるかが大切

朝、曇り空。
こんな日は上の畑へ出発!
遅く起きたkenを誘ってカメラを持ってワクワクしながら上の山へ向かう。
昨年は梅雨の雨が少なくて、作物は実らないどころか芽を出さなかった。
そんな年でもハーブは青々と茂り花を咲かせてくれて、
草むらで風になびいて香らせるハーブたちにどんなに癒されたか知れない。
今年は芽を出す時期に雨が降ってくれたおかげで、
今のところ順調に育っている。

この喜び物質をもっと濃厚にした強烈な感覚があったなぁと探ってみたら、
ライブの時の高揚感に似てる。
歌うことの高揚感を何百倍に、いや、何十倍に薄めた脳内物質。
歌うことの高揚感を10倍に薄めた喜び脳内物質は料理のときかなぁ。
穏やかな脳内物質。
気づいてさえいたら、すべての人共通に心地よい感覚の気がする。
強烈な脳内物質を求める時には歌い、穏やかが心地よければ土をさわる。
今の私はそんな感じ。
結局のところ、どんな気持ちでいたい?

何をやるかにこだわりすぎてはダメ。
どんな気持ちでいるか。
これまで「畑に行くと元気になるんだよ」と話す人や本と出会ってきた。
その頃の私にとって畑はしんどくて疲れる場所だった。
暑いし、虫がいるし。

すべての記憶から強烈な記憶だけを取り出して、
それが自分の人生のすべてだと思っていたし、
なぜ穏やかさの記憶を認識していないのか、
今ならその頃の自分のことがよくわかる。

いちばん大切なものを手放してから、
穏やかな脳内物質を味わってしまった。
それが良かったのかどうか、わからない。
それらの色のスペクトラムが、
重なり合わさったり、光を放ったりして記憶を上書きしはじめる。
強烈な体験も不思議と調和していて、
これこそが自分だと言えるようなものもなくて、
ちょうど、こぼれ種が芽を出した時のようで、
いつこぼれた種なのか見当もつかない。
なのにその場所がいつか芽をあらわすその種のためにあったのだと思うような、
すべてを受け入れる、穏やかすぎる感覚。



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