7月, 留め帳:滝の掃除をさせていただきました。

来週の滝開きに向けて、朝6時から不動の滝の掃除。
雨がぽつりぽつりと降る中、椿会のメンバーと黙々と掃除をする。
この時期は農作業も果樹栽培も忙しい時なので声をかけさせてもらっても思うように会が主催する神事に集客は難しい。
会のご高齢者にとっては車の運転も不安な要素になる。

いろいろお誘いさせていただくにあたり、滝に入ることで何が変わるのか、何が起こるのかという問いがやってくる。
抱えている個人的な問題に対して、滝は特効薬にはならない。
ある人は光が見えたと言うし、血液が身体中をかけめぐり気持ちがいいという人もいるので、そのお話も参考までにさせていただくこともある。
スピ系と宗教は”胡散臭さ”という点で共通らしく、関わりたくないという人もいて、そういう人の発する拒否のサインはわかりやすいので声はかけない。
心理を知り尽くしているサインを発する人にも声をかけない。
説教されるハメになったことがあるから。

私の母方の血筋は神社だ。
嫁ぎ先は神道ではなかったけれど親族の信仰心は厚い。
私はご縁だと思う。
ご縁を感じるならば、もしくは興味があれば参加してくださいと、適当とも思われても仕方のなようなお誘いの文言を繰り返すばかり。
私も初めての滝では、自分に何か特別な事が起きることを期待した。
それは起きたといえば起きたし、起きなかったと言えば起きなかった。
今は何も期待せず何も起こらないことさえも純粋に、つまり意味を求めない在り方を受け入れている。
滝を体験した人が、2度3度と毎年続けて参加することは非常に少ない。
目的が滝に入ることならば、滝に入ったことで目的を果たしてしまうからなのかも知れないし、期待したことが起きなかったのかもしれない。もしくは、これが続けられない理由の一番かも知れないが、具合が悪くなってしまった人。
自然の滝は雨天が続けば水量が増えて、立つ場所によってはたたきつけるような滝にもなっている。
後頭部を強く叩きつけられれば脳しんとうのような症状が起きる。
頭痛や吐き気というような。

小諸椿会の滝開きは伊勢の一宮「椿大神社」の宮司をお迎えしての神事。
神道は禊ぎに始まり禊ぎに終わる。
鳥船(とりふね)、雄健(おたけび)などの行の後、お神酒と塩で清めた滝へ宮司にならい滝へと進む。
冷たい水と水量に恐怖から一瞬怯んで、次に目の前の滝がとてつもない大きなエネルギーを放っていることに怯む。
が、そこに先人として入っていく会のメンバーの勇気が気魂となって龍体のように流れてくる。

自分の番がやってきて覚悟が決まる。
信じられるのは自分だけ、この時の自分は自我でないのは確か。
滝は一度として同じであったことがないのだから自我よりも先だつ”私”という存在に動かされている。
これまで自分に都合よくやってこなかった時の言い訳、言い訳してやらずに済んだから失敗もなかったけど成功もなかった諸々、そんな中途半端なクセを持った心に「イザっ!」とばかりに喝が入り、やがて心は静かになる。
果たして自分がいるのかも定かではないような静けさ。
祓い給え、清め給えと口にしている自分の実際の声の大きさよりも、心の中の祓い給え、清め給えの声が一層大きくなる。
滝に入った時に「起きたといえば起きたし、起きなかったと言えば起きなかった」と書いたのはこのこと。

今年は最少の人数での滝の禊ぎになりそうだ。
気を引き締めていこうと、夫とも話しているところ。

 

椿大神社 長野第三支部小諸椿会について

 

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